公益社団法人 日本医学放射線学会

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2010年02月19日

梅垣洋一郎先生を偲んで

放射線医学総合研究所・理事 辻井博彦

 わが国の放射線治療に多大な貢献をされた梅垣洋一郎先生が、1月2日に亡くなられました。87歳でした。
  先生は、1971年から8年余の間、放医研で臨床研究部長として活躍されましたが、早くから放射線治療と画像診断の融合を推進するとともに、わが国の放射 線治療の基礎をつくられました。私にとって先生は、同じ職場の大先輩であると同時に、仕事の上でもいろいろご指導頂いた良き教師でもあります。
梅 垣先生には数々の受賞歴がありますが、なかでも平成6年にがん治療学会から送られた中山恒明賞を忘れるわけにはいきません。副賞の一部がJASTROの 「梅垣賞」となり、これまで多くの若い放射線科医を励ましてきたからです。先生は治療医でありましたが、画像診断の重要さを誰よりも理解し、放射線治療の なかに積極的に取り入れることを力説されていました。
 私が梅垣先生に最初にお会いしたのは、先生が国立がんセンター病院放射線診療部長のときです。先生が40代で、私が20代後半の頃でした。その頃私は国立札幌病院に勤務していましたが、恩師の入江五朗先生に薦められ、梅垣先生を訪ね施設見学をさせてもらったのです。
  梅垣先生はとにかくアイデアマンで、先見の明がありました。癌研病院では、癌病巣に直視下にラドンシードを刺入する治療法を開発し、がんセンター時代 にこの技術はベータトロン電子線による開創照射法となりました。先生はまた、精密な画像診断と放射線ビーム制御の組み合わせによる治療法を提唱し、 1981年にはXCTと連携した放射線治療計画装置(TOSPLAN)を開発しました。これはいまでいうIGRTの先駆的仕事といえます。先生はまた、近 い将来ポジトロン核医学は大発展するだろうと予想していましたが、今まさにその通りになっています。
 梅垣先生は最も油の乗り切った49歳のと き、速中性子線治療研究の責任者として放医研に招かれました。先生によると「1962年には国立がんセンターが開設され、世界的な施設と人材が集められ た。しかし開設2年後に池田首相が下咽頭癌で入院され、治療の甲斐もなく逝去されました。首相の病気を治せない癌センターでは困ると世論が高揚し、その結 果として放医研の速中性子線治療が実現した」、これが放医研に来た理由でした。
 さて、期待されて始まった速中性子線治療でしたが、残念ながら副 作用の強い治療で、批判も強まりました。そこで先生は重粒子線治療を強く主張されたとのことですが、あとで関係者に伺ったところ、先生は国立がんセンター に赴任した1962年にはすでに、重粒子線治療の構想を主張されていたとのことです。重粒子線はその後、放医研でHIMACとして現実のものとなったわけ です。ここでも先見の明に脱帽です。
 梅垣先生はとにかく柔和なお人柄で、興奮したり、怒ったりするのを見たことがありません。先生の話は何歳に なっても理路整然とし、ポイントをしっかりと抑えているのには脅かされました。最後にお会いしたのは約半年前ですが、その時も、医療における画像診断の利 用と情報公開の重要さを力説しておられました。いつまでも尽きることのない情熱には頭の下がる思いでした。
 心よりご冥福をお祈り致します。